1948年:迷走
イーグル゠ライオンの方針が迷走し始めたのは1948年の4月のことである。
きっかけは、製作部門のトップをつとめていたブライアン・フォイの辞任だ [1]。「映画製作に専念したい」という理由が報道されている。彼は独立プロデューサーとして、イーグル゠ライオンと契約することになった。フォイの後はCEOのアーサー・クリムが製作部門のトップとなった。
これは、イーグル゠ライオン社内での映画製作の不調が直接の原因だろう。この1948年の3月までに、イーグル゠ライオンのもとで配給された映画は30本になっていた。その3分の1は、60分程度の超格安西部劇で、PRCからの引継ぎ製作作品だった。さらに設備投資前に撮影に入っていた映画も低予算のものが大半を占め、いずれも興行成績は無惨だった。だが、最大の問題は《A級映画》と思っていた作品が、まったくその役割を果たさなかったことだった。『恐怖の一年(Repeat Performance, 1947)』、ヴァージニア・メイヨ主演の『Out of the Blue』、アルトゥール・ド・コルドヴァ主演の『Adventures of Casanova』、シルヴィア・シドニーとジョン・ホジアック主演の『Love from a Stranger』、カラー作品の『Red Stallion』、いずれも100万ドル以上の製作費でスターを中心に据えた映画だったが、興行的にはすべて失敗した。
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イーグル゠ライオンのA級映画
左から『Out of the Blue』『Adventures of Casanova』『Love from a Stranger』『Red Stallion』のポスター。いずれも100万ドル以上の製作費をかけた映画だったが、興行成績は芳しくなかった。(IMDB)
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最初の1年は、間違いを犯しましたね。興行成績につながらない役者を呼んでしまった。(スターたちの)名前をクレジットに載せたいばかりに、結果的には、実際の興行価値以上に金のかかる映画を作ってしまった。後になってから、この(スターたちの)名前は、公開時にお客を呼ぶには全く意味がないんだと気づいたんです。
Arthur C. Krim [2]
ロバート・R・ヤングとアーサー・クリムはイーグル゠ライオンの経営改革に乗り出し、独立プロデューサーと社内製作のハイブリッド型に転換した。今後はメジャーな独立プロデューサーとのみ提携し、100,000~200,000ドルクラスの製作費の映画は委託しないと決定した [3]。これはA級映画のみを製作・配給するというヤングの経営方針で、その後ダグラス・フェアバンクス・ジュニアとの交渉や [4]、困窮状態にあったサミュエル・ゴールドウィンとの合併といった話も出ていた [5]。
ロバート・S・ベンジャミンは、ヤングの異様なエゴが、会社を軌道に乗せるためのクリム達経営陣の努力を無駄なものにしていると感じていた。彼は、この頃(1948年6月)、アーサー・B・クリムにメモを送っている。
自分がいかに優れているかばかり強調するし、ロバート・ヤングという個性がどんなものかばかり強調するし、本当にこのロバート・ヤングという男、こわいよ。
R. S. Benjamin to A. Krim [6 p.35]
ベンジャミンは、自分自身が映画産業に無知すぎることにヤングが気づいていないどころか、むしろ映画産業に従事している人間たちが無能だと思っていることに強烈な危機感を抱いていた。
前述したように、イーグル゠ライオンの経営陣が、『T-メン』『キャノン・シティ』『夜歩く男』のような映画 ──すなわち、現在フィルム・ノワールと呼ばれているような作品── のヒットが重要だという点に気づいたのは、プロデューサー達がそれらの映画を製作の企画したり、資金集めに奔走していた時ではない。ずっと後になってから、『T-メン』が公開されてゆっくりと興行収入が積み重なっていくのを見て、はじめて気づいたのではないだろうか。少なくとも、アーサー・B・クリムはそうだった。ロバート・ヤングは、自己資金をつぎ込んだ《A級映画》がすべてムダ金になって、業界の笑いものになっていた。その一方で、例えば『Tーメン』はヒットしたにもかかわらず、エドワード・スモールが利益をほとんど持って行ってしまっていた。映画ビジネスの困難さについてロバート・ヤングはあまりに無知だった。
イーグル゠ライオンは1948年に計30本の映画をリリースしている。このうち、後世になって《フィルム・ノワール》と呼ばれるようになる映画として、エドガー・G・ウルマーの『野望の果て(Ruthless, 1948)』、アンソニー・マンの『脱獄の掟(Raw Deal, 1948)』、クレーン・ウィルバーの『キャノン・シティ(Canon City, 1948)』、バーナード・ヴォーハウスの『魔界霊人ミスターX(The Amazing Mr. X, 1948)』、スティーブ・セクリーの『虚しき勝利(Hollow Triumph, 1948)』、バッド・ベティカーの『閉ざされた扉の陰(Behind Locked Doors, 1948)』、アルフレッド・ワーカーの『夜歩く男(He Walked by Night, 1948)』[❖ note]❖『夜歩く男』の監督 この映画の一部分はアンソニー・マンが監督したという説がある。これについては「ランダム・ノワール」の記事で詳しく解説した。などが挙げられる。ジョン・オルトンが撮影監督をつとめたのは『脱獄の掟』『キャノン・シティ』『魔界霊人ミスターX』『虚しき勝利』『夜歩く男』の5本で、そのどれもが彼の撮影スタイルを余すところなく見せる作品になっている。
7月になると、イーグル゠ライオンは入手した映画権を売却し始めている。全部で40本、100万ドル分の映画権を手放すと発表した [7]。このうち、MGMが『国境事件』の脚本を50,000ドルで購入したと報道されている [8]。
その年の後半には、経営の問題はより深刻になっていった。
まず、9月の末に製作を一旦ストップして、6~8週間、スタジオを閉鎖するという発表が行われた [9]。理由として報道されたのは「撮影準備が遅れている映画がある」だった。映画業界全体が供給過多に陥って、不況に突入しつつある状態[❖ note]❖ハリウッド戦後の不況 ハリウッドは1946年に史上最高の興行収入を記録するが、その後急激に市場が冷え込んだ。この経緯については拙著「FILM NOIR REVIEW II」の「1946」の章で分析しているので、参照していただきたい [10]。で、イーグル゠ライオンの不調は特に目立つものだったに違いない。「1949-50年には24本製作予定 [11]」「1,000,000ドルの製作資金をボストンのファースト・ナショナル銀行から調達 [12]」といった火消しのようなニュースを流していたが、ついに11月10日にイーグル゠ライオンは「当面のあいだ事業停止」を発表する [13]。60人解雇、50人ほどで最低限の操業を続ける一方で、独立プロデューサーの映画を配給する経営構造に転換するというニュースが流れた。翌日には、ワーナー・ブラザーズも事業停止の予定を発表した [14]。
業界全体で、製作したものの公開の目途が立っていない映画が倉庫に積まれていた。イーグル゠ライオンは50本以上の映画が公開されていたものの、セールスは不調、さらにその他に10本の映画が公開できずに止まっていた。当初の計画では、これからまだ7本の映画が製作に入る予定だったが、これは撮影開始を延期せざるを得なかった。ワーナーも似た状況で、23本の映画が公開できていない。公開してもタイミングを誤ると、損失を出すだけになってしまう。
全米映画製作者協会(sic)のトップ、エリック・ジョンストンは、ハリウッドの不況を「1ドルもするハンバーガー」と競争しなければならないこと、そして海外市場の喪失が原因だと述べた。人々の支出は食事や家賃や衣服に消えていて、映画のような贅沢品に使う金がほとんどないのだという。
Los Angeles Evening Citizen News [15]
さらに追い打ちをかけたのが、イギリスをはじめとする各国のクォータ制だった。アメリカ映画はイギリスの映画館から締め出され、しかも外貨の持ち出しも制限がかけられた。
1949年:最終章
イーグル゠ライオンが配給する映画は、「A級映画のみを製作する」というロバート・R・ヤングの声明とは裏腹に急激に質を落としていった。1948年後半のイーグル゠ライオンの大作と言えば『Northwest Stampede (1948)』とヘディ・ラマー、ロバート・カミングス主演の『Let’s Live a Little (1948)』だ。前者は製作費200万ドルのカラー西部劇、後者もスターを迎えて100万ドル以上を費やした《A級映画》のはずだった。しかし『Northwest Stampede』はロサンジェルスでもシカゴでも2週間ももたなかった。『Let’s Live a Little』も、あっという間に消えてしまった。同じくシネカラーで製作された『Adventures of Gallant Bess (1948)』は二本立ての添え物に格下げされた。唯一注目を集めたのが『夜歩く男』で、360,000ドル程度の製作費のセミドキュメンタリー映画にもかかわらず、業界誌の批評や反応は予想以上に良かった。だが、この種の映画はレンタルでゆっくりと興行されて興行収入を積み上げていくため、帳簿に反映されるまで時間がかかる。結局、イーグル゠ライオンは、大ヒット作もなく、製作もシャットダウンしたままで、1949年を迎えた。
イーグル゠ライオンの経営陣はメディアに「製作休暇」とごまかしていたが、実質的にはスタジオの閉鎖だった。この長期間にわたる操業停止を解除して、製作再開を宣言したのは1月中旬である [16]。製作に入ったのは『トラップ(Trapped, 1949)』『ニューヨーク港(Port of New York, 1949)』で、そのほかにも『Marker X』、『Twelve Against the Underworld』『The World and Little Willie』『These Were My Orders』などのタイトルが製作予定に挙がっていた。
リチャード・フライシャー監督の『トラップ』は、紙幣偽造団を追跡するセミドキュメンタリー・スタイルのフィルム・ノワールであるが、ロイド・ブリッジズ演じるサイコパスの逃亡犯が追い詰められて凶暴性を加速していくさまが印象的だ。ラズロ・ベネディク監督のセミドキュメンタリー・スタイルの映画『ニューヨーク港』は、ユル・ブリンナーのデビュー作としても有名だろう。一見、柔和だが導火線の短いサイコパスをブリンナーが好演している。『ニューヨーク港』のプロデューサー・クレジットはオーブリー・シェンクになっているが、『トラップ』も『ニューヨーク港』も、実質的にブライアン・フォイの製作である。結局、イーグル゠ライオンはブライアン・フォイの製作作品に依存していた。
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『ニューヨーク港(1949)』
ユル・ブリンナーは、この後、K・T・スティーヴンスをネクタイで絞殺する
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この年の6月に公開された『秘密指令(Reign of Terror, 1949)』はイーグル゠ライオンでのアンソニー・マン/ジョン・オルトンの最後の作品である。フランス革命に題材をとった歴史映画だが、ロベスピエールたちがギャングに見えると言われた作品で、これをフィルム・ノワールに分類する批評家も多い。ウォルター・ウェンジャー(Walter Wanger, 1894-1968)がプロデューサーだが、彼はこの時期『ジャンヌ・ダーク(Joan of Arc, 1948)』の常軌を逸した製作の対応に追われており[❖ note]❖『ジャンヌ・ダーク』 イングリッド・バーグマン主演の大作。ウェンジャーが巨額の製作費($4,650,000)をかき集めてヒットを狙ったが大失敗し、$2,500,000の損失を出した。、『秘密指令』については、実質的にウィリアム・キャメロン・メンジーズに製作、セット、脚本などを任せていた。製作費は$771,623、結局数年かけて黒字になった作品である [17]p.230-231。
これと対照的なのが、『Tulsa(1949)』であろう。同じくウェンジャー製作でイーグル゠ライオンが配給した西部劇だ。スーザン・ヘイワード主演、$1,156,000かけた「A級映画」だった。イーグル゠ライオンの配給担当ウィリアム・ハイネマンが「私がイーグル゠ライオンに来て以来初めてのヒットになるのは間違いない」と言っていたが、ふたを開けてみると無惨な結果だった。製作費の半分も回収できなかった[17 p.231]。
イーグル゠ライオンと契約していた監督やスタッフ、そしてスターたちも、スタジオが閉鎖した状態では収入が途絶えてしまう。アンソニー・マンは2月にはイーグル゠ライオンとの契約が残っているものの、MGMで『国境事件(Border Incident, 1949)』の撮影に入っている[❖ note]❖『国境事件』の撮影 マンはイーグル゠ライオンとのあいだで専属契約を結んでいたが、ジョン・オルトンはフリーランス契約だった。。マンはイーグル゠ライオンとの契約を10月になってようやく買い取ることができ($35,000)[18]、11月にMGMと契約した[19]。
そして結局、ブライアン・フォイも1949年3月にイーグル゠ライオンから離れて古巣のワーナーに戻ると発表したのである [20]。フォイは独立プロデューサーとして約束した2本の映画をイーグル゠ライオンに納めるところまではやり遂げると約束した。
支払いが遅れたり、報告書の送付が期限を過ぎたりしたせいで、イーグル゠ライオンの評判はいろんなところでダメージを受けている。ほとんど不可能な難題ばかりで、会社の名声と評判を維持することに上手くいっているとは言えない。もう何か月も支払いが滞っているという噂をプロデューサーや債権者が流している。準信託で金を集めている外部のプロデューサーは特にうるさい。バンク・オブ・アメリカと共同してよい関係を保てているおかげで、この会社の信用が崩れていないのは奇跡だ。
Robert S. Benjamin [6 p.32]
元来、ロバート・R・ヤングは映画産業の現場には全く興味のない人物で、経費は最小限になるまで削り、映画の営業をして歩くセールスマンたちの邪魔ばかりしていた。その無責任なマネージメントにアーサー・クリムが銀行に愚痴をこぼすほどだった。会社の経営が暗礁に乗り上げると、ヤングは、「ビジネスを知らないハリウッドの連中」のせいだと考え、自分の子飼いのウィリアム・C・マクミラン・ジュニアという人物をイーグル゠ライオンに送り込む。マクミランはヤングの「個人代理人」という肩書で鉄道関係の業界団体でまとめ役をしていた「ビジネスマン」である。ヤングは彼をイーグル゠ライオンの副社長に据えて[❖ note]❖ウィリアム・S・マクミラン・Jr マクミランはイーグル゠ライオンの副社長であると同時に、イーグル゠ライオンの親会社であるパテ・インダストリーズの役員でもあった。この不適切な人事がクリムを苦境に追い込んだ。、クリムが路線変更しようとするのを阻止し、彼の考える《A級映画》をヒットさせようと思ったのだろう。また、ボストンのファースト・ナショナル・バンクからの資金をちらつかせて、ゴールドウィンやエドワード・スモールを釣ろうとしている様子が頻繁に報道された。
そして、ついにイーグル゠ライオンが終る日がきてしまう。1949年5月4日、アーサー・クリムが社長を退くと発表した [21]。「マネージメントとオーナーのあいだで、修復しがたい相違が生じたため」とロサンジェルス・タイムズ紙は報道している。
クリムは、前述のフォイの2本の映画の撮影が終わるまではイーグル゠ライオンで面倒を見ると約束した。フォイのイーグル゠ライオンでの最後の映画『ニューヨーク港』の撮影が終わったのは8月に入ってからだった。
ヤングと彼の仲間は、イーグル゠ライオンの失敗はクリムのせいだと主張していたようだが、ハリウッドはもちろん誰の失敗かわかっていた。
当然のことながら、ヤングとその部下は私のことをスケープゴートにしようと必死だ。だが驚いたことに、彼らの攻撃よりも(業界の)反発のほうが強いようだ。
Arthur C. Krim [22 p.37]
ロバート・R・ヤングは、イーグル゠ライオンの買い手を探して奔走したが、エドワード・スモールが触手を動かしたものの結局売買は成立しなかった。フィルム・クラシックスという会社と合併してイーグル・ライオン・クラシックスという配給会社になったが、これも1951年に解散した。ヤングは1950年にRKOやパラマウントハリウッドの映画会社8社を相手取って「謀議してイーグル゠ライオンの映画配給を邪魔した」と裁判を起こした [23]。判事は「ニューヨークでキャデラックがよく売れるからと言って、安い車を市場から追い出そうと共謀しているわけではないだろう、映画もおなじだ」と、なかば呆れたと言わんばかりの判決を下した。
その後
アーサー・B・クリムとロバート・S・ベンジャミンは、イーグル゠ライオンでの短い事業経営のあと、消滅寸前のユナイテッド・アーチスツの再建を任される。彼らは、イーグル゠ライオンでの失敗を活かして、ユナイテッド・アーチスツを立て直すだけでなく、約30年にわたってハリウッドの最も成功したスタジオのトップとして君臨する。はじめは弁護士として映画業界に関わってきた二人だったが、イーグル゠ライオンでの苦戦は彼らを強靭で野心的なビジネスマンに変貌させた。製作のためのスタジオ設備を持たないこと、製作費を外部のプロデューサーなどに依存しないこと、という教訓はイーグル゠ライオンで学んだものだった。
アンソニー・マンとジョン・オルトンは、MGMに移籍して『流血の谷(Devil’s Doorway, 1950)』を撮っている。この異色の西部劇を最後に、彼らはそれぞれの道を進んだ。マンはこの後『ウィンチェスター銃’73(Winchester ’73, 1950)』などの西部劇で名を馳せた。オルトンは『巴里のアメリカ人(An American in Paris, 1951)』のバレーシーンの撮影でアカデミー賞を受賞したが、その後は徐々に業界から疎まれるようになってしまう[24]。だが、陰翳や色彩を自在に操る彼のカメラワークを評価する監督やプロデューサーたちは、現場の抵抗にもかかわらず、オルトンを採用していた。『暗闇に響く銃声(The People Against O’Hara, 1951)』『ビッグ・コンボ(The Big Combo, 1955)』『エルマー・ガントリー(Elmer Gantry, 1960)』などはそのよい例だろう。彼の最後の、そして最も強烈な仕事は、TV番組『スパイ大作戦(Mission: Impossible, 1966-1973)』のパイロット版の撮影だ。彼は、カラー撮影でも、色で画面を「描く」アプローチを試行し続けた数少ない実践者だった。
ロバート・R・ヤングは、映画業界から手を引き、元来の生業である鉄道事業に集中するようになった。もともと、彼はアメリカ全土を網羅する大陸鉄道網を作り上げて自分のものにしたいという野心を抱いていた。1950年代の初め、ニューヨーク・セントラル鉄道を買収して、いよいよアメリカ全土の鉄道を独占しようとしていたが、西海岸の鉄道会社の強い反発にあって、頓挫する。また、戦後になって、アメリカ全土で高速道路の整備が急速に進み、さらに自動車の性能が著しく向上したことや、国内の旅客航空も徐々に大衆化されつつあったことも手伝って、鉄道は長距離旅客のインフラとしての地位を失いつつあった。少なくとも投資の対象としては魅力が薄れていた。ヤングが掌握しようと生涯をかけていたビジネスが、色あせ始めていた。そして、イーグル゠ライオンが消滅してから7年後の1958年1月に、ヤングはショットガンで自殺した。60歳だった[25]。
ブライアン・フォイは、イーグル゠ライオンではセミドキュメンタリー・スタイルの映画にこだわっていたが、ワーナー・ブラザーズに渡ってからは路線をすっかり変えた。3D映画最大のヒット作『肉の蝋人形(House of Wax, 1953)』を製作し、大ヒットさせている。製作費はわずか$680,000足らずだったが[26]、最終的に$23,000,000以上の収入があったとされる [27]。もともと3D映画には懐疑的だったジャック・ワーナーを、ブライアン・フォイと監督のアンドレ・ド・トス[❖ note]❖アンドレ・ド・トス ド・トスは片目の視力がないにもかかわらず、3D映画史上最も成功した映画を監督した。が説得して、製作にこぎつけたという [28 pp.102-119]。フォイはその後もヴォードヴィル出身のショーマンとしての嗅覚を信じて売れると思った題材を映画化し続けた。
イーグル゠ライオン・フィルムズのような映画スタジオは、メジャースタジオや名監督がつくるハリウッドの歴史から見れば、徒花に終わった場所だった。近年になって、いわゆるB級映画やジャンル映画への憧憬をともなった批評や研究が進むにつれ、アンソニー・マンやエドガー・G・ウルマー、バッド・ベティカー、バーナード・ヴォーハウスといった監督の作品やジョン・オルトンのカメラワークが再評価されるようになってきている。いわばハリウッド史の再構築が進んでいるわけだが、そのなかでもイーグル゠ライオン・フィルムズは1948年のたった1年で実に18本のフィルム・ノワール作品を公開したという極めて異色な存在である。いわゆるジャンル映画批評的態度からすれば、想像力をかきたてられる存在かもしれない。だが、それだけ多くのギャング映画、犯罪映画がつくられた経緯には、夢のような意図や戦略があったわけではない。むしろ、経営陣は彼らが考えるA級映画の製作と配給に躍起になっており、それがこのスタジオを短命にした。ブライアン・フォイとその友人たちが持ち込んだ、モラルのありかと正体がはっきりしない力が、アンソニー・マンやジョン・オルトンという変わり種の才能を発見した、と言うべきだろう。
そして、イーグル゠ライオン・フィルムズが短命で、その存在価値を誰もかえりみることがなかった、という事実こそが、その後の映画史を変えるきっかけとなったと言ってもよいのではないだろうか。このスタジオが解散した直後から、そのライブラリがテレビ放送用にほぼすべて放出され、あっという間にパブリックドメインに落ちたため、『夜歩く男』や『虚しき勝利』といった作品が、(主に北米を中心に)他の同時代の作品よりもはるかに知られるようになったのだ。この「だれも価値を認めなかったがために、後の世代がアクセスしやすくなり、その価値を見出された」という構図が、1980年代以降のジャンル映画、B級映画批評の土台になっているように思う。20世紀末から現在に至るまでのハリウッド映画が、ジャンル映画的感性、低予算映画的手法への憧憬とレスペクトから派生しているのは、まさしくこの「忘れられたがゆえに復活できた」というパラドックスが源泉にあるのではないだろうか。
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ユナイテッド・アーチスツの経営陣(1953年)
左からアーノルド・M・ピッカー(海外配給)ウィリアム・J・ハイネマン(配給担当)ロバート・S・ベンジャミン(理事長)アーサー・B・クリム(社長)マシュー・フォックス、マックス・E・ヤングスタイン(広告担当)。このうち、ハイネマン、ベンジャミン、クリム、ヤングスタインの4人はイーグル゠ライオン出身である。
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配信・ディスク
このリストの映画の大部分が米国でもパブリックドメインになっており、動画を簡単にオンラインで発見することができるだろう。またパブリックドメインでなくても、違法アップロードもあふれている。ここでは、それらの動画の元になっていると思われるディスクを中心に紹介する。
野望の果て(Ruthless, 1948)
日本国内ではブロードウェイからDVDが発売されている(エドガー・G・ウルマー傑作選)。
海外盤では、廃業したOlive Filmsからブルーレイが発売されていた(リージョンA)。中古市場で探すことになりそうだ。
脱獄の掟(Raw Deal, 1948)
やはり、ブロードウェイからDVDが発売されている。また、Amazonで配信されている。
海外盤では、Classic Flixから限定版ブルーレイが出ていたが、現在は在庫切れ。
キャノン・シティ(Canon City, 1948)
日本語字幕版ディスク、配信共にない。
海外盤では、フランスのautus filmsがDVDを発売している。PALなので要注意だ。
魔界霊人ミスターX(The Amazing Mr. X, 1948)
これも日本語字幕版は見当たらない。
海外盤は、Film Detectiveがブルーレイを発売している(リージョンフリー)。
虚しき勝利(Hollow Triumph, 1948)
日本語字幕版はなし。
海外盤ブルーレイは、Film Detective(リージョンフリー)とKino Lorber(リージョンA)が発売されている。
閉ざされた扉の蔭(Behind Locked Doors, 1948)
日本語字幕版はなし。
米国でかつてKinoが「Film Noir – The Dark Side of Hollywood (Sudden Fear / The Long Night / Hangmen Also Die / Railroaded / Behind Locked Doors)」ボックスセットを販売していた。中古市場を探すよりほかないだろう。
トラップ(Trapped, 1949)
日本語字幕版は見当たらない。
海外盤はFlicker Alleyのブルーレイ(リージョンフリー)。
ニューヨーク港(Port of New York, 1949)
日本語字幕版は見当たらない。
海外盤も安価DVDがあるだけで、あまり良い映像とは言えない。
国境事件(Border Incident, 1950)
日本国内用にブロードウェイからDVDが発売されている。
海外盤では、Warner Archiveからブルーレイが発売されている
流血の谷(Devil’s Doorway, 1950)
こちらもブロードウェイからDVDが発売されている。
海外盤は同じく「Warner Archive Collection」でブルーレイが発売されている。
References
[1]^ “Foy Seeking E-L Release,” Los Angeles Evening Citizen News, Los Angeles, p. 19, Apr. 7, 1948.
[2]^ “Eagle Lion’s Krim Has His Own Ideas on Picture Star Values,” Variety, p. 4, Nov. 03, 1948.
[3]^ “Expansion Program Seen in New EL Production Policy,” Los Angeles Evening Citizen News, Los Angeles, p. 21, Apr. 8, 1948.
[4]^ “New Fund May Attract Producers To Eagle-Lion,” Los Angeles Evening Citizen News, Los Angeles, p. 21, Apr. 29, 1948.
[5]^ “Eagle-Lion And Goldwyn May Merge,” Los Angeles Evening Citizen News, Los Angeles, p. 19, Apr. 30, 1948.
[6]^ T. Balio, “United Artists, Volume 1, 1919–1950: The Company Built by the Stars.” Univ of Wisconsin Press, 2009. Available: https://books.google.com?id=QljKdIYzncoC
[7]^ “In the News,” Los Angeles Evening Citizen News, Los Angeles, p. 13, Jul. 12, 1948.
[8]^ “In the News,” Los Angeles Evening Citizen News, Los Angeles, p. 17, Nov. 30, 1948.
[9]^ “Eagle-Lion Will Stop Production For Six to Eight Week ’Holiday’,” Los Angeles Evening Citizen News, Los Angeles, p. 17, Sep. 21, 1948.
[10]^ M. Ink, “FILM NOIR REVIEW II.” アルティ・ボルゲ, 2023. Available: https://order.pico2.jp/6bolge/
[11]^ “24-Film Slate For Eagle-Lion,” Los Angeles Evening Citizen News, Los Angeles, p. 19, Sep. 23, 1948.
[12]^ “In The News,” Los Angeles Evening Citizen News, Los Angeles, p. 21, Oct. 28, 1948.
[13]^ “Eagle-Lion Set For Shutdown,” Los Angeles Evening Citizen News, Los Angeles, p. 19, Nov. 10, 1948.
[14]^ “Virtual Shutdown Looms At Warners December 1,” Los Angeles Evening Citizen News, Los Angeles, p. 21, Nov. 11, 1948.
[15]^ V. MacPherson, “Film Business Off, But Still No Panic Seen,” Los Angeles Evening Citizen News, Los Angeles, p. 17, Nov. 22, 1948.
[16]^ “Eagle-Lion To Reopen With 20-Film Slate,” Los Angeles Evening Citizen News, Los Angeles, p. 13, Jan. 18, 1949.
[17]^ M. Bernstein, “Walter Wanger: Hollywood Independent.” University of Minnesota Press, 2000.
[18]^ “In the News,” Los Angeles Evening Citizen News, Los Angeles, p. 13, Oct. 24, 1949.
[19]^ “In the News,” Los Angeles Evening Citizen News, Los Angeles, p. 9, Nov. 2, 1949.
[20]^ “Studio Briefs,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 17, Mar. 11, 1949.
[21]^ “Eagle-Lion Film Corp. President Quits Post,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 30, May 5, 1949.
[22]^ T. Balio, “United Artists, The Company That Changed the Film Industry: 1951-1978.” Madison, Wis: Univ of Wisconsin Pr, 2009.
[23]^ “Eagle-Lion Sues Eight Companies for $15,000,000,” Los Angeles Evening Citizen News, Los Angeles, p. 17, Oct. 4, 1950.
[24]^ L. Lewis, “Introduction The Poetics of the Director of Photography ’ s Palette,” in John Alton: Essays on the Cinematographer’s Art and Craft, Jefferson, NC: McFarland, 2020.
[25]^ S. to T. N. Y. Times, “Robert Young, Financier, Ends Life in Palm Beach; Chairman of New York Central Kills Himself With a Shotgun Palm Beach Mansion Is Scene
of Financier’s Death ROBERT R. YOUNG COMMITS SUICIDE,” The New York Times: Archives, Jan. 26, 1958.
[26]^ J. Theakston, “House of Wax: Film Essays and Interviews | Film Registry | National Film Preservation Board | Programs | Library of Congress.” Available: https://www.loc.gov/programs/national-film-preservation-board/film-registry/index-of-essays/
[27]^ “House of Wax.” https://www.boxofficemojo.com/release/rl1314424321/
[28]^ A. Slide, “De Toth on de Toth.” Faber & Faber, 2011. Available: https://books.google.co.jp/books?id=9Wtf3-BxgXkC
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