ノワールの製作者:L・ゴールドスタイン
ハリウッドで《売れる映画こそ良い映画》と考えるプロデューサーは多いが、そのために自ら場末の映画館まで出向いて行って調査をする者は少ない。レナード・ゴールドスタインは、その数少ない、映画館本位の姿勢を貫いた映画人の一人だ。

ヤカンとロバ

フィルム・ノワールを製作したプロデューサー達のトップテンに名前を連ねていないが、取り上げておきたいプロデューサーがいる。レナード・ゴールドスタイン(Leonard Goldstein, 1903-1954)である。

ゴールドスタインは、一般的な映画史においては「ケトル夫婦(Ma and Pa Kettle)」シリーズや「しゃべるラバ、フランシス(Francis the Talking Mule)」シリーズを成功させたプロデューサーとして位置付けられている。いずれも人気キャラクター人気キャラクター 「ケトル夫婦」は、ベティ・マクドナルドの小説「卵と私」に登場する片田舎の農民夫婦、「フランシス」はデヴィッド・スターンの短編小説に登場するラバである。が登場する他愛ないコメディだが、興行的には大成功をおさめた。例えば「ケトル夫婦」の2作目『ダイナマイト夫婦(Ma and Pa Kettle, 1949)』は300万ドル以上の興行収入をあげ、ユニヴァーサル・インターナショナルの上層部も驚くほどの人気だった。人気は若い層だけでなく、35歳以上の「普段は映画を見ない層」にも広がっていたという[1]。「ケトル夫婦」にしても「フランシス」にしても、ゴールドスタインはシリーズ第2作目からの製作担当だが、どちらも息の長いシリーズにすることに成功している「ケトル夫婦」シリーズの興行成績 「ケトル夫婦」シリーズの最初の3作で800万ドル、シリーズ全作品を合わせると3500万ドルの収入があったという[2 p.168], [3 p.448]。一方でゴールドスタインが優れたフィルム・ノワール作品の製作にたずさわっていたことは、あまり論じられてこなかった。

アリゾナ州ビスビー出身のゴールドスタインは、ロサンジェルスで劇場のエージェントとして映画界に入ってきた。主にフロントオフィス、配給、興行側の仕事にたずさわってきた彼は、1936年に初めてRKOで副プロデューサーとして映画製作に加わる。その後、なかなかプロデューサーになれずに、短い期間に映画製作の現場を転々とする。コロンビア・ピクチャーズに移った際には『ギルダ(Gilda, 1946)』の製作を任されると期待していたが、ヴァージニア・ヴァン・アップがプロデューサーに指名され、ここでも彼はチャンスをつかめなかった。

彼がプロデューサーの仕事を本格的に始めたのは、1946年に移籍したインターナショナル・ピクチャーズがユニヴァーサルと合併して、ユニヴァーサル・インターナショナルとなってからである。「ケトル夫婦」シリーズも「フランシス」シリーズも財政難に陥っていたユニヴァーサル・インターナショナルを危機から救ったと言われている。

映画はエンターテインメントであって、それを忘れた瞬間に赤字に転落する。人が説教を聞きたいときに行くのは教会で、映画を見に来るのは娯楽のためなんだ。それを勘違いしちゃいけない。

Leonard Goldstein

ゴールドスタインの映画製作のモットーは「観客がすべて」である。アカデミー賞や批評家からの称賛はむしろ毛嫌いしている。彼はアカデミー賞の授賞式に出るつもりがないので、タキシードも持っていないと言う。手がける映画の製作費は平均50万ドル、決してAクラスの映画を製作する気はない。ニューヨークやロサンジェルスなどの大都市でヒットする映画よりも、都市部から離れた地方で親しまれる映画のほうを優先した。地方の映画館を自分の足で訪ねて回って、観客の反応をじかに確かめた。もともと『卵と私(The Egg and I, 1947)』で脇役に過ぎなかったケトル夫婦を主役にしたてるシリーズを考案したのも、上映中の映画館を彼自身が見て回って、ケトル夫婦が登場するたびに身を乗り出してスクリーンに食入る観客の様子を見たからだった [4 p.51]

「ケトル夫婦一家」
マージョリー・メインとパーシー・キルブライドがケトル夫婦(Ma and Pa Kettle)、そして15人の子供の一家をめぐる騒動が描かれるシリーズ。(IMDB

ゴールドスタインは、ユニヴァーサル・インターナショナルを離れて20世紀フォックスと契約した時も、華々しいレッドカーペットをあえて避け、中小規模の映画館を視野に入れた堅実な選択をしている。当時、20世紀フォックスは自社で開発したワイドスクリーン・フォーマット「シネマスコープ」を配給し始めたところだった。ところがシネマスコープは《2.55 : 1》というアスペクト比のスクリーンサイズとステレオ音響のため、映画館にとっては初期設備投資が大きな壁となっていた。ゴールドスタインは「Panoramic Productions」という独立製作会社を設立、フォックスにスタンダード・フォーマットスタンダード・フォーマット Panoramic Productionsが配給したのは、《1.66 : 1》のアスペクト比、モノラル音響の作品だった。ネガティブはそれまでのアカデミー比《1.33 : 1》だが、上映時にアパーチャーにマスクをして《1.66 : 1》にする方式である。このスクリーン・アスペクト比に関する混乱は、現在のレストアでも問題になっていることがある。『眠りなき街(City That Never Sleeps, 1953)』のレビューでこの問題について論じたので参考にしてほしい。の映画を提供した。これは、新規の設備投資を躊躇している映画館にとっては救世主だったに違いない。フォックスにとっても、シネマスコープの設備に転換できてない映画館に新作映画を配給できる必要があった。

ゴールドスタインは、製作の細部にまで入り込んで指示を出すようなことはしなかった。

私の仕事は、適切な人選をして、どんな映画にしたいかを伝えて、その後は放っておくことだ。

Leonard Goldstein [5]

その彼が、モラルの境界を曖昧にするような《フィルム・ノワール》を製作している。決して底堅い人気があるとは言えない犯罪映画のジャンルにあえて挑戦するとき、ゴールドスタインは何をしたかったのか。

製作年タイトル原題配給
1948LarcenyUniversal Pictures
1950I Was a ShoplifterUniversal Pictures
1950The Sleeping CityUniversal Pictures
1950One Way StreetUniversal Pictures
1951Hollywood StoryUniversal Pictures
1952Steel TownUniversal Pictures
1953Vicki20th Century Fox
(1954)(死刑五分前)(Black Tuesday)(United Artists)
レナード・ゴールドスタインが製作したフィルム・ノワール作品
IMDBデータより

このリストから『I Was A Shoplifter (1950)』『One Way Street (1950)』『The Sleeping City (1950)』『Vicki (1953)』、そして彼が企画をしたものの、製作途中に亡くなり、双子の兄弟であるロバートが製作を引き継いだ『死刑五分前(Black Tuesday, 1954)』を見ていきたい。

I Was A Shoplifter (1950)

センセーショナルなタイトル(『私は万引きだった』)から、超低予算のポヴァティロウの映画を想起してしまうが、脚本、演出、撮影、演技、編集にいたるまで、極めてクリーンで澱みがないプログラム・ピクチャーである。

監督はチャールズ・ラモント(Charles Lamont, 1895-1993)、スコット・ブレイディ(Scott Brady, 1924-1985)が万引き犯罪組織に潜入する捜査官、アンドレア・キング(Andrea King, 1919-2003)がファム・ファタール/組織の女ボス、トニー・カーチス(Tony Curtis, 1925-2010)がその部下を演じている脇役俳優たち トニー・カーチスもまだ脇役という位置づけで、ギャングの手下を演じている。ロック・ハドソンとチャールズ・マッグローもクレジット無しの端役で出演している。。衝動的に万引きをしてしまう、いわゆる窃盗症(クレプトマニア)と、それを食い物にする犯罪組織を舞台に、プロの万引き師たちのテクニックや、捜査班と犯罪組織の国境を越えた攻防が描かれる。

まず、1949年の10月に『Shoplifter』というタイトルで映画製作が発表された [6]。同月に製作が開始され [7]、12月初頭に完成している [8]。奇妙な偶然なのかもしれないが、製作が始まったのとほぼ同じ時期に、ロサンジェルス・タイムズ紙に「The War on Shoplifters」という特集記事が掲載されている [9]。この記事で紹介されている、特製の箱や下着を使った万引きのテクニックが映画のなかでも登場する(映画のなかでは、これらの仕掛けはブースターと呼ばれている)。この記事は映画とタイアップを目指したものか、それとも、《クレプトマニア》を精神疾患の一種とみなす専門家の意見をメディアがセンセーショナルにとりあげていたのか、はっきりとはわからない。

完成した映画『I Was A Shoplifter』は、セミドキュメンタリー・スタイルのナレーションから始まる。威厳をにじませる男性の声が、前述のロサンジェルス・タイムズ紙の記事にも登場する統計、例えば、万引き犯の10人に9人までが女性であることや、現場で捕まる万引き犯の大部分が初犯であること、などを述べていく。戦後にルイ・ド・ロシュモンが20世紀フォックスで製作した『Gメン対間諜(The House on 92nd Street, 1945)』『鮮血の情報(13 Rue Madeleine, 1947)』から、イーグル=ライオンの『T-メン(T-Men, 1947)』、マーク・ヘリンジャーの『裸の町(The Naked City, 1948)』に至る、様式化されたオープニングである。もはや1950年にもなると、このスタイルのボイスオーバー・ナレーションはいささか食傷気味だったに違いない。

潜入捜査という設定は、倫理的な葛藤をどこまで引き延ばすことができるかという問いが、そのままサスペンスの枢要な機構になっている。犯罪組織のボスを捕まえるためには、潜入捜査官はどこまで悪事を見て見ぬふりをしなければならないのか。目の前で殺人が起きていても黙していなければならないのか。潜入捜査官自身が違法行為にどこまで手を染めるのか。この均衡の危うさが物語の推進力となる。また、正義の執行人が、巨悪を暴くために犯罪者を装うという仕掛けは、実は犯罪者のほうが魅力的だというパラドックスを前提としている。潜入捜査官は、映画の上映時間のほとんどを犯罪者として過ごし、そしてその犯罪遂行能力の高さ、人間的魅力の豊かさによって、犯罪組織の中枢に食い込んでいく。この薄い氷によって仕切られているパラドックス、曖昧さ、侵犯の惧れこそ、想像力の中核となるものだ。戦後ハリウッドに潜入捜査の物語が多く、それが《Film Noir》として認知される場合が多いのも、戦後の映画製作体制、特にプロダクション・コードの運用が、価値観の曖昧さや反転をある程度許容するようになったからであろう。

だが、『I Was A Shoplifter』は価値観の曖昧さや反転を物語の跳躍板にしているわけではない。万引きという身近な犯罪がいかに組織化されつつあるか、そして犯罪テクニックがいかに進化しているか、という暴露記事的な興味と、国境をはさんだカーチェイスと大捕物のアクションが、この映画の焦点である。暴露記事的な内容に関して言えば、特に踏み込んだものにはなっていない。「ブースター・ボックス」のような視覚的びっくり箱が紹介される程度である。当時の新聞記事にも取り上げられていた、クレプトマニアとプロフェッショナル、そして薬物中毒の相互関係については、表面的に触れられる程度で、プロットを加速させる仕掛けの一つに過ぎない。

一方、メキシコへ国外逃亡しようとする万引き犯罪集団を追跡するカーチェイスは、国境警備の飛行機からの空撮が、ともすれば直線的な追いかけっこに陥りやすいシーンに立体感を与えている。だが、犯人グループを地上で追跡する自動車のショットは平板で、距離やスピードの表現に乏しい。空撮を導入したために、製作費のバランスが悪くなってしまったのだろうか。

公開当時の批評は、観客を飽きさせないだろうが、古臭い種類の映画だという意見で一致している。

アクションの連続で、観客を飽きさせないだろう

Motion Picture Daily

古臭いプロット構造はもう何十年も使い古されたもので、真面目に議論できる範疇の映画ではない。

New York Post

ありふれたパターンの犯罪メロドラマで、二本立てを埋めるのにちょうどよい。

New York Herald Tribune

「ありふれたプロット」「使い古されたスタイル」といった指摘は、レナード・ゴールドスタインが製作した映画を俯瞰していくと頻繁に遭遇する。むしろ頑なに新規性を拒み、過去に上手くいくことが証明されたやり方を優先する彼の製作哲学が見えてくる。

One Way Street (1950)

公開はこの映画のほうが『I Was A Shoplifter』よりも1ヶ月近く早かった。しかし、製作は11月末から12月末までで、『One Way Street』のほうが後から製作された。製作時のタイトルは『Death On A Side Street』。

監督はアルゼンチン出身のヒューゴ・フレゴネーズ(Hugo Fregonase, 1908-1987)、出演者は英国出身のジェームズ・メイソン(James Mason, 1909-1984)、スウェーデン出身のマルタ・トレン(Märta Torén, 1925-1957)、そしてメキシコ出身の俳優(ロドルフォ・アコスタ、エマ・ロルダン、マルガリート・ルナ)も多く出演しており、多国籍的、多文化的な要素が混在した映画である。しかし、映画に登場するメキシコの村がユニヴァーサルの敷地に建てられたセットであったように、ハリウッドが描く異国の夢想の物語であることに変わりはない [10]

ストーリーは、戦後に数多く作られた「金を奪ってボスの女と逃走したが、ギャングに追われ続ける」という設定の変奏だが、ひねりがあるとすれば、主人公がギャングの雇われ医者という、モラルの破産が内側に向かった人物であること、そしてクライマックスで、ギャングは自滅したにもかかわらず、主人公が運命のいたずらで結局生きのびることができないという、PCA以外は誰も納得しない結末になっていることくらいだろうか。

『One Way Street (1950)』
仰角の構図。ヒューゴ・フレゴネーズは、頻繁に仰角の構図を使用する。室内では天井がフレームを占める比率が大きくなり、人物の視線はフレーム上方に向かうようになる。

脚本のクレジットはローレンス・キンブル(Lawrence Kimble、1904-1977)となっているが、この映画は公開後の1951年に剽窃でカリフォルニア州上位裁判所に訴えられている。訴えたのは、コロンビアやリパブリックで西部劇やアクション映画の脚本を書いていたルイーズ・ルソー(Louise Rousseau, 1901-1981)という脚本家ルイーズ・ルソー ルソーは1951年9月にHUACの公聴会に召喚され、共産党員だったことを指摘された。彼女は憲法修正第5条を理由に発言を拒否したが、もちろん無意味だった [11 p.1739]。ブラックリスト入りして、1951年を境にTVの仕事もなくなったとみられる。で、彼女が1949年の初頭にユニヴァーサル・インターナショナルの脚本部に提出した「Haunted Heart」というオリジナルストーリーにそっくりだと主張した [12]。翌年、裁判所はルソーの訴えをほぼ認めユニヴァーサル・インターナショナルに慰謝料を払うように命じた [13]

ヒューゴ・フレゴネーズは、ハリウッドで活躍した数少ない南米出身の映画監督だ。アルゼンチンのメンドゥーザ生まれ、1935年にニューヨークへ渡り、1937年にコロンビア・ピクチャーズでテクニカル・アドバイザーとして働く。その後、アルゼンチンに帰国して映画界にもぐりこみ、編集や監督の助手をしながらキャリアを積んだ。彼の監督デビュー作は『Donde mueren las palabras (1946)』という「実験的、表現主義的ミュージカル [14 p.259]」だった。この映画がMGMのルイ・B・メイヤーの目にとまり、一度はMGMと契約を結ぶものの、提示された脚本にフレゴネーズが同意せず契約は破棄となった。再度帰国したのち、アルゼンチン・フィルム・ノワールの代表作の一つ『Apenas un delincuente (1949)』を監督した。翌年、ユニヴァーサルと契約し、この『One Way Street』がハリウッド第1作となった。

ギャングのボスの女と逃げて身を隠しているという設定は、『過去から逃れて(Out of the Past, 1947)』を頂点にして、数多くのハリウッド映画に見られる定番のシチュエーションである。おおかたの作品では、居どころを嗅ぎつけたギャングの手下たちが徐々に近づいてきて、逃げ場を失っていく二人が描かれるのだが、『One Way Street』では、警察の捜査を逃れるためにホテルの一室に籠ってむしろ息苦しい思いをしているのがギャング(ダン・デュリエとウィリアム・コンラッド)だというのが風変わりで、若干コミカルでさえある。

公開当時も、ジェームズ・メイソン、マルタ・トレン、ダン・デュリエという、人気のキャストの魅力を活かしきれていない平凡なプロットが批判された。

(俳優たちの)誰一人として、それぞれのキャリアで築いてきたトップレベルの演技をここでは見せることができていない。その理由は、おそらく脚本にあるのだろう。登場人物がどれもステレオタイプで、本来なら手に汗を握る興奮に満ちた作品になるべきだったのに失敗している。

Motion Picture Daily

興行自体も低調だった。ロサンジェルスではユナイテッド劇場など数カ所の封切館で一斉に公開されたものの、ホールドオーバーにならず打ち切られてしまう。その後が『I Was A Shoplifter』だった。

『One Way Street (1950)』公開時の新聞広告
ジェームズ・メイソン、マルタ・トレン、ダン・デュリエは当時、3人とも人気スターで、集客力があると見込まれていた。しかし、『One Way Street』はそのキャストをもってしても話題になることはなく、10日ほどで上映が打ち切られた。(ロサンジェルス・タイムズ 1950年4月19日)
『I Was A Shoplifter』新聞予告広告
映画館で上映打ち切りが決まると、次の映画の予告広告が新聞に掲載される。この広告では上の方に「あと2日!」と『One Way Street』の上映期間が記載され、次に公開される『I Was A Shoplifter』の広告が全面を占めている。(ロサンジェルス・タイムズ 1950年4月27日)

The Sleeping City (1950)

やはり1950年に公開されたレナード・ゴールドスタイン製作の映画『The Sleeping City (1950)』は、ニューヨークでロケ撮影されたセミドキュメンタリー・スタイルの作品である。

この映画は『Confidential Squad』『Web of a City』といったタイトルで製作がすすめられていたConfidential Squad ユニヴァーサルの発表の半年以上前から、エドワード・ラスカー(シカゴの広告会社ロード&トーマスのオーナーの長男で女優ジェーン・グリアーの夫)が『Confidential Squad』という「セミドキュメンタリー・スタイルの」映画をイーグル゠ライオンで製作すると発表していた [15], [16], [17]。このプロジェクトはすぐに消滅し、ラスカーもイーグル゠ライオンと袂を分かつが、ジョー・アイジンガーが脚本を担当していること、ラスカー家の医学界との繋がり( cf . ラスカー賞)などを考えると、UIの『Confidential Squad』は、このプロジェクトを引き継いだものである可能性が高い。。ユニヴァーサル・インターナショナルがゴールドスタインの製作で『Confidential Squad』を製作すると発表したのは1949年9月[18]、10月中旬から12月中旬にかけて製作された。監督はジョージ・シャーマン(George Sherman, 1908-1991)、脚本はジョー・アイジンガー(Jo Eisinger, 1909-1991)、ニューヨークのベルヴュー病院を中心にロケーション撮影がおこなわれた。オープニングで、主演のリチャード・コンテがベルビュー病院について紹介しつつ、「あなたがこれから見る物語は完全なフィクションだ」と念を押す。これは、UIの失態をカバーするために後から挿入された。元々「ベルビュー病院」の名前はPRに使用しないという合意があったにもかかわらず、UIがそれを破ってリークしてしまったのが発端である。病院の医師や看護婦が麻薬を横流しするという内容の映画だったため、病院の信頼に傷が付くと考えた当時のニューヨーク市長、ウィリアム・オドワイヤーが苦情を申し立て、映画が完全なフィクションであることを明言する必要が出てきたのだ。

この映画が、ニューヨークというロケーションのみならず、コンセプトからスタイルまで、マーク・ヘリンジャーの『裸の町』に負うところが大きいのは一目瞭然だ。監督のジョージ・シャーマンは西部劇がフィルモグラフィの大半を占める量産映画監督で、クレジットされているものだけで129本を生涯に監督している。セミドキュメンタリー・スタイルが得意というわけでもない。担当することになった映画を期待通りに作り出すタイプの監督である。ここでもゴールドスタインの「成功が証明済みの方程式」に頼る製作アプローチがはっきりと表れている。

『The Sleeping City (1950)』
『裸の町』のセミドキュメンタリー・スタイルを受け継いだ作品。冒頭の恐ろしい殺人の場面からラストの銃撃戦までニューヨークの薄暗い世界をうまくとらえている。

公開当時のメディアの反応は好意的だった。

ニューヨークの高級映画館、パーク・アヴェニュー劇場でプレビュー上映が行われた。ここではめったにないことだが、観客は上映中ずっと緊張で釘付けになっていた。口コミでよい評価が広がるに違いない。

Motion Picture Daily

(『The Sleeping City』は)『裸の町』ほどの物語の深みや演技の強みはないが、それでも興行的には強い関心を集めるだろう。製作自体は良い。

Variety

しかし、『I Was A Shoplifter』『One Way Street』『The Sleeping City』の3作品はどれも1950年の興行収入ランキング(Top 95)に入らなかった [19]。この年、ユニヴァーサルは全体的に低調で、ランキングに9作しか入っていない。ゴールドスタイン製作の映画は2作、『Ma and Pa Kettle Goes to Town (1950)』『Comanche Territory (1950)』がランキング入りした。

Vicki (1953)

レナード・ゴールドスタインは、ユニヴァーサル・インターナショナルとの契約更新の合意に至らず、1952年5月に同社を離れて20世紀フォックスと契約する。ハリウッドのプロデューサーのなかでも6位にランキングされるほどのヒットメーカーにもかかわらず、ユニヴァーサル・インターナショナルは彼を引き留めておくことができなかった。前述のように、ゴールドスタインは20世紀フォックスで「Panoramic Productions」という製作会社を通してシネマスコープ以外の映画製作を担当するようになるが、『Vicki (1953)』は、それより前に彼が製作した映画である。

この映画は、戦前に20世紀フォックスが製作・配給した映画『美人モデル殺人事件(I Wake Up Screaming, 1941)』のリメイクで、ある女性モデルが殺された事件を中心に、孤独な男の錯乱した執着と嫉妬を描いている。しかし、このリメイクは、オリジナルの映画よりも、やはり20世紀フォックスで製作・配給されたヒット映画『ローラ殺人事件(Laura, 1944)』を再現しようしているのが明確に表れている。例えば、オープニングのタイトルカットを見れば、一目瞭然である。

『Vicki (1953)』(上)と『Laura (ローラ殺人事件, 1944)』(下)のタイトルカット
どちらの物語も、事件の被害者の女性の《美貌》に魅せられた刑事の話で、いずれも20世紀フォックスによって製作・配給された。『Vicki』は明らかに『Laura』のスタイルを借用して、時代遅れ/クラシックな様式美を再現しようとした作品である。オープニングのタイトルカットはポートレートの構図、フレームの構図、両脇に配置された照明に至るまで、『Laura』を再現している。

監督のハリー・ホーナー(Harry Horner, 1910-1994)は、ボヘミア出身の舞台美術演出家、美術監督、プロダクション・デザイナーだ。ウィリアム・キャメロン・メンジーズと並ぶ優れたプロダクション・デザイナーで、ジョージ・キューカー、ウィリアム・ワイラーの作品をディテールに至るまで見事にまとめ上げた、陰の功労者である。

美術監督とプロダクション・デザイナーは実は大差ない。優れたプロダクション・デザイナーというのは、監督の左手、あるいは監督の心、左脳細胞と言ってよいだろう。プロダクション・デザイナーの仕事は、監督がすでに見たこと以上のものを見るように、監督を刺激することだ。「見る」と言っても、視覚的なことだけではない。登場人物、景色、内装と人物の関係について、監督の理解や好奇心をより広げるようにするのが仕事だ。

Harry Horner [20]

ハリー・ホーナーは、初めて監督に抜擢された時期も、場所も不運だった。独立製作のユニットで低予算の反共SF映画(脚本家アンソニー・ヴェイラーが映画製作を手掛けた『Red Planet Mars (1952)』)を作ったり、ハワード・ヒューズに公開を妨害されたり(アイダ・ルピノの製作会社 The Filmmakers での『優しき殺人者(Beware, My Lovely, 1952)』)、不幸な事態が相次いだ。一方で舞台芸術のデザイナー/監督としては、様々な挑戦をしていた。サンフランシスコ・オペラ・カンパニーの「トゥーランドット」の舞台製作、ブロードウェイでの「トヴァリッチ」再演時の舞台製作などが挙げられるだろう。その後、20世紀フォックスのゴールドスタインが彼を抜擢、『Vicki』の監督に指名した。

『拾った女(Pickup on South Street, 1953)』で強烈な印象を与えたジーン・ピーターズ(Jean Peters, 1926-2000)が事件の被害者となるヴィッキーを演じている。当時の興行主向け業界誌には、『拾った女』と『ローラ殺人事件』を結び付けてプロモーションをかけるように呼び掛けた記事なども登場している [21]

レナード・ゴールドスタイン製作の20世紀フォックス映画『Vicki』は、『拾った女』のジーン・ピーターズ、そして『ローラ殺人事件』の記憶に残るテーマを宣伝の中核にしている。

Film Bulletin

端的に言って、『Vicki』は1953年の映画としては時代遅れの感が否めない。ほぼ10年前の『ローラ殺人事件』の様式を意識的に踏襲しているのだから当然だろう。むしろ、復古調、古典主義的な美意識で、保守的な観客層の嗜好を刺激することを狙っていたのかもしれない。ロマンチシズムと心理劇が融合したミステリを復興する試みは、決して成功したとは言えなかった。

出演しているスターたちは最善を尽くしたが、スティーブ・フィッシャー原作、ドゥワイト・テイラー担当の脚本が、穴だらけのプロットで、分かり切っていることを、分かり切っているクライマックスまで延々と先延ばしにしてしまっている。

Motion Picture Daily

ニューヨークでは、1953年9月8日に封切、一本立てでロキシー劇場で公開されたが1週間で終わってしまう。ロサンジェルスでは朝鮮戦争を舞台とした戦闘機が主役の『サブレ・ジェット(Sabre Jet, 1953)』と二本立て(『Vicki』が添え物)だったが、これも10月23日から1週間ほどで終映となった。当時、上映された他作品と比べて、『Vicki』はあまりに見劣りがした。例えば、ニューヨークのロキシー劇場では『Vicki』の後にシネマスコープの大作『聖衣(The Robe, 1953)』が封切上映される。同じくニューヨークのパラマウント劇場では『宇宙戦争(The War of the Worlds, 1953)』 が続映を続けており、その他にも3D映画が上映されていた。封切される映画の大半がカラー、ワイドスクリーンになりつつある中で、白黒映画でも集客力のあるスター、観客を惹きつけるストーリーが必要になってくる。ラジオ・ミュージック・ホールでは『ローマの休日(Roman Holiday, 1953)』、キャピトルでは『地上より永遠に(From Here to Eternity, 1953)』、アスターでは『第十七捕虜収容所(Starlag 17, 1953)』がホールドオーバーを続けていた。このなかで、1941年の映画のリメイクを、1944年のスタイルで、プロダクション・コードに挑戦するわけでもなく従来どおりのフーダニットとして公開しても、興行は低調に終わってしまうだろう。

ただ、現在の私たちから見ると、時代遅れという欠点は消えてしまい、むしろ復古調、古典主義的な美意識の世界の中で暴走するリチャード・ブーンの《インセル》ぶりが強烈な印象を残す。

この復古調の犯罪映画という路線を、レオナード・ゴールドスタインはさらに続けようとしていた。古めかしいギャング映画を、往年のギャングスタ―で製作しようとしていたその矢先に彼は亡くなってしまう。遺志を引き継いで、双子の兄弟のロバートが完成させた。

死刑五分前 (1954)

この映画をレナード・ゴールドスタインの映画としてリストするのは、クレジットの面からは実は正しくないのだが、それでも製作会社が「レナード・ゴールドスタイン・プロダクションズ」、プロデューサーが遺志をついだ双子の兄弟であり、映画のビジュアルに最も影響を与えた撮影監督のスタンリー・コルテスの起用とコダックの「Tri-X」ネガフィルムの採用を決めたのがレナード・ゴールドスタインだったことから考えて、『死刑五分前(Black Tuesday, 1954)』を彼のフィルモグラフィの一部として考えるのは的外れなことではないと思う。

『Vicki』が1944年の20世紀フォックスのスタイルへの回帰だとしたら、『死刑五分前』は1930年代初頭のギャング映画への回帰である。二人の死刑囚カネリ(エドワード・G・ロビンソン)とマニング(ピーター・グレーヴス)が、死刑執行直前に人質をとって脱走、マニングが隠しておいた強奪金を回収して逃亡しようとする物語を、『犯罪王リコ(Little Caesar, 1932)』『仮面の帝国(I’m a Fugitive from a Chain Gang, 1932)』『暗黒街の顔役(Scarface, 1932)』などのプレコード時代のギャング、犯罪映画の凶暴性を求めて描いていく。ロビンソン演じるギャングのボス、カネリの残虐を残虐と思わない感覚は、彼が演じてきた数多くの悪役の中でも特に振り切れている。終盤の銃撃戦は、銃撃戦そのものよりも、そのなかで人質を簡単に殺していくカネリの異様さにおののいてしまう。

監督は、ヒューゴ・フレゴネーズ。撮影監督のコルテスとともに、立体的に歪んだ構図 ──かつてオーソン・ウェルズとグレッグ・トーランド、そしてRKOの特殊効果部が『市民ケーン』で達成した構図── を巧みに使いこなしながら、天井と壁が圧迫し閉塞する、常に酸素が欠乏している空間を創り出すことに成功した。

スタンリー・コルテスは『Black Tuesday』のほぼ全編(98%)で、当時市場導入されたばかりのコダックのネガフィルム Tri-X を使用して撮影した [22]。これは粒状性を抑制しつつもフィルム感度 film speed を大幅に改善したフィルムストックで、ハリウッド映画で全編使用したのは『Black Tuesday』が最初である。それまでのフィルムストック、例えば、1935年に市場導入された、 Plus-X はWestonスケールで40(屋外)、ASAスケール(1960年以前)で64、『市民ケーン』で《ディープ・フォーカスディープ・フォーカス グレッグ・トーランドは《パン・フォーカス》と呼んでいた。》のテクニックを駆使するうえで貢献したコダックの Super-XX はWestonスケールで80、ASAスケール(1960年以前)で125程度のフィルム感度1)であった [23], [24]。それが Tri-X では、フィルム感度がASAスケール(1960年以前)で250(屋外)まで向上しており、粒状性も抑えられていた [25]

コルテスは、生前のレオナード・ゴールドスタインに Tri-X の使用を提案した。

『Black Tuesday』の撮影で Tri-X を使用したいと、故レオナード・ゴールドスタインに提案しました。撮影テストを彼に見せたのですが、そのなかでも、脂蝋燭たった一本で女性のクローズアップを取ったもの(そのようなショットは初めてだということです)を見て、彼はこのストックの使用を許可してくれたのです。強調しておきたいのは、フィルム感度が優れているというだけでなく、他のネガティブ・ストックよりも小さい絞りでより深い焦点深度が得られるからこそ、この Tri-X を使うことに決めたということです。

Stanley Cortez

深い焦点深度は、脱獄したギャングのボス、カレリ一味が隠れるアジトの撮影において最大の効果を発揮している。倉庫を利用したアジトは、奥行きを分割する複数の障害物でより閉塞的で息苦しい場所となり、そこに複数の人物を配置して、拘束され、抜け出せない一味とその人質の地獄を作り上げていく。

『死刑五分前』のディープフォーカス
脱獄したカレリとその一味が隠れる倉庫は、緊迫した人質拘束、立てこもり、銃撃戦の舞台として効果的に映し出されている。ディープフォーカスは複数の人物を閉塞的な空間でとらえるうえで機能的に優れた手法だ。スタンリー・コルテスは『偉大なるアンバーソン家の人々(The Magnificent Ambersons, 1942)』以来、この手法を用いている。
『死刑五分前』の構図
手前に人物のクローズアップを配置し、その向こうに別の人物の表情をとらえる。
『死刑五分前』のキアロスクーロ
スタンリー・コルテスは、画面を斜めに切り裂く直線で明確に区切られた陽と陰の構図を、翌年公開の『狩人の夜(The Night of the Hunter, 1955)』でさらに追及していく。

『死刑五分前』は、プレコードの暴力性を持ちつつも、オーソン・ウェルズのRKO作品の詩情やチャールズ・ロートン監督の『狩人の夜』の陰翳を持ち合わせた稀有な作品だ。これは撮影監督のスタンリー・コルテスと監督のヒューゴ・フレゴネーズの感性が相乗的に昂揚した結果だ。

業界誌は好意的な評を寄せていた。

ヒューゴ・フレゴネーズ監督のこの映画は、巧妙に演出された脱獄の場面で派手に始まり、それからあとコンパクトな80分にわたって1分たりとも退屈になることはない。

Motion Picture Daily

だが、実際の興行は残念ながら低調だった。ニューヨークで1954年の大晦日にRKOパレス劇場でプレミア公開されたが、ボードヴィルのステージとの「併映」という屈辱的なものだった。1週間のホールドオーバーののち、規模の小さい劇場で短い公開を続けながら消えていった。ロサンジェルスでの公開が象徴的だろう。1955年の初めにフォックス系列の4館で一挙公開されたが、わずか1週間で打ち切り、その後は『ヴェラクルズ』だった。やはりここでもワイドスクリーン(SuperScopeSuperScope 『ヴェラクルズ』は《SuperScope》と呼ばれるフォーマットで公開された最初の作品である。通常の35mmプリントだが、光学オプティカルトラックの領域まで映像が占め、2:1のアスペクト比になるようにクロップされている。)、テクニカラーの大作には勝てなかった。

公開された時代の文脈に戻してみたとき、確かに『死刑五分前』は古臭い、集客力の弱い映画だと言わざるを得ない。だが、レナード・ゴールドスタインは、新しい潮流にすぐにはついていけない小規模から中規模の劇場のために映画製作を考えていた。『ケトル夫婦』『フランシス』のようなシリーズで儲けることに関しては一流だった。それがシネマスコープのようなワイドスクリーン・フォーマットが時代の主流になりはじめたころから、『Vicki』『死刑五分前』のような映画は注目もされなくなっていく。決して映画史上に残る名作ではないが、堅牢なエンターテインメントなのだ。やはり観客が求めているものが変化していった。彼が1954年に突然亡くなってしまったのは、ある意味宿命だったのか。それとも、これから新しい荒野へ向かっていくはずだったのか。

ただ、映画史が流れに流れていった今も、彼の作品が忘れさられ、フレゴネーズやシャーマンのような監督も人口に膾炙することがないのは残念だ。再度、評価されるべき時期が来ていると思う。

Notes

1)^ フィルム感度 フィルム感度 Film Speed という指標は、ASA(ISO)が業界標準として確立するまで、複数のスケールが存在していた。ウェストン Weston は、戦前に普及していたスケールのひとつである。また、ASAスケールも、1960年の改定で大幅に変わってしまうため、単純な比較が困難である。

配信・ディスク・書籍
「ケトル夫婦」シリーズ

私の知るかぎり、日本語字幕付きで鑑賞可能な配信、ディスクはなさそうだ。海外盤で、初期の4作品を集めたブルーレイ(Via Vision Entertainment)、全10作品を収めたブルーレイセット(Universal)がある。海外の動画配信プラットフォームで鑑賞可能だが、Geo-blockされている。

「フランシス」シリーズ

これも海外盤のみ。Kino Lorberから全7作を収めたブルーレイセットが発売されている。

I Was A Shoplifter (1950)

日本国内での日本語字幕付き動画配信、ディスク販売は見当たらない。海外盤でKino Lorberの「Film Noir: The Dark Side of Cinema XI」に収められている。

One Way Street (1950)

これも日本国内での日本語字幕付き動画配信、ディスク販売は見当たらない。やはり海外盤でKino Lorberの「Film Noir: The Dark Side of Cinema XIV」に収められている。

The Sleeping City (1950)

これも同じく日本国内での日本語字幕付き動画配信、ディスク販売は見当たらない。やはりKino Lorberが「Film Noir: The Dark Side of Cinema III」のなかで提供している。

Vicki (1953)

これも海外盤のみになるが、入手困難かもしれない。20世紀フォックスからの正規版DVDが出ていたが、今は中古で探す必要がありそうだ。

Black Tuesday (1954) [邦題:『死刑五分前』]

イギリスのEurekaからブルーレイが発売されている。ただし、リージョンBなので注意が必要。

References

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[3]^ J. R. Parish and W. T. Leonard, “The Funsters.” New Rochelle, N.Y. : Arlington House, 1979.

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[6]^ H. Hopper, “Mona Freeman, Scott Brady in ’Shoplifter’,” Los Angeles Times, Los Angeles, p. 6, Oct. 6, 1949.

[7]^ “Production Remains Steady on Coast,” Motion Picture Daily, p. 2, Nov. 01, 1949.

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[10]^ “One Way Street.” https://catalog.afi.com/Catalog/moviedetails/26433

[11]^ United States. Congress. House. Committee on Un-American Activities, “Communist infiltration of Hollywood motion-picture industry : Hearing before the Committee on Un-American activities, House of Representatives, Eighty-second Congress, first session.” Washington, D.C. : U.S. G.P.O., 1951.

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[25]^ E. Huse, “Tri-X – New Eastman High-Speed Negative Motion Picture Film,” American Cinematographer, p. 335, Jul. 1954.


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