B級映画の帝王
もし「B級映画の帝王」の「王冠」があるとすれば、その王冠が最もふさわしいのは、やはりサム・カッツマン(Sam Katzman, 1901-1973)だろう。低予算映画のプロデューサーとしての彼の業績は驚くべきものである。1933年の『His Private Secretary』から1972年の『The Loners』まで、40年もの長い活動期間のあいだに240本もの映画を製作した。そのほぼすべてが安上がりで早撮りの映画だ。カッツマンの代表作と言えば、出涸らしのようなネタばかりのコメディ映画の『イースト・エンド・キッズ』シリーズ[❖ note]❖ ブロードウェイのヒット作(1935)、そしてそれを映画化した、ウィリアム・ワイラー監督の『デッド・エンド(Dead End, 1937)』に出演していた少年達を、ワーナー・ブラザーズが「デッド・エンド・キッズ」というグループにして、彼らの主演作をシリーズ化した。このデッド・エンド・キッズは、ワーナーでのシリーズが終了したあと、ユニヴァーサルで「リトル・タフガイズ」という名前で映画シリーズを開始、さらにはモノグラムで「イースト・エンド・キッズ」という別シリーズに出演していた。ギャラ交渉でカッツマンと決裂したあと、アライド・アーチスツで「バウリー・ボーイズ」シリーズに出演し続けた。、ジョニー・ワイズミュラー主演の『ジャングル・ジム』シリーズ(1948-1955)、たわいもないが、非常に中毒性の強い『スーパーマン(Superman, 1948)』のような連続活劇、数限りないホラー映画、SF映画、みすぼらしい西部劇、それに『ロック・アラウンド・ザ・クロック(Rock Around the Clock, 1956)』をはじめとするティーンエイジャー向けのロックンロール映画まで、ありとあらゆるジャンルの映画が挙げられる。流行や時流の最先端を突っ走り、観客が欲しいものを、欲しいその瞬間に、スクリーンに投影すれば、少々キズがあってもバレないだろう、それがカッツマンの映画づくりだった。『人類危機一髪! 巨大怪鳥の爪(The Giant Claw, 1957)』のように、時には、そのキズがあまりに大きすぎて底が抜けてしまうことがあるが、それで彼のキャリアにキズがつくようなことはない。カッツマンは映画作りの隅々にまで精通した正真正銘のショーマンであると同時に、映画ビジネスのリアリティを深く理解していた数少ない人間だった。パイン゠トーマスはモンスターかもしれないが、サム・カッツマンはキング ──あるいは悪魔── だった。
カッツマンのフィルム・ノワール
カッツマンのフィルモグラフィのなかで《Film Noir》のタグが付与されているのは、全部で11本で、パイン゠トーマスと並んで2番目に多かった。
| 製作年 | タイトル | 原題 | 配給 |
| 1949 | ─ | Chinatown at Midnight | Columbia Pictures |
| 1953 | ─ | The 49th Man | Columbia Pictures |
| 1954 | ─ | The Miami Story | Columbia Pictures |
| 1955 | ─ | New Orleans Uncensored | Columbia Pictures |
| 1955 | ─ | Chicago Syndicate | Columbia Pictures |
| 1956 | ─ | Inside Detroit | Columbia Pictures |
| 1956 | ─ | The Houston Story | Columbia Pictures |
| 1956 | ─ | Miami Expose | Columbia Pictures |
| 1956 | ─ | Rumble on the Docks | Columbia Pictures |
| 1957 | ─ | Escape from San Quentin | Columbia Pictures |
| 1957 | ─ | The Tijuana Story | Columbia Pictures |
彼のことを知る者によれば、カッツマンは《ハリウッドの敏腕プロデューサー》《コストカットの鬼》といったイメージからは程遠い、温かく、優しい人間だったという [1 Chap.2]。彼は常に撮影現場に顔を出し、監督、スター、スタッフに陽気に語りかけていた。彼の息子によれば、カッツマンは雰囲気づくりの上手い助監督のような感じだったという。だが、彼はある一点だけは曲げなかった。撮影は6日間で仕上げること。それ以上はなし。どんな理由があろうとも、6日間しか撮影期間は与えられなかった。
まず、カッツマンの《Film Noir》のフィルモグラフィのなかから『The Houston Story (1955)』を見てみよう。これはテキサスの石油産業を背景に、マフィアの闇のビジネスをテーマにした典型的なプログラム・ピクチャーである。物語は、元石油採掘技術者のフランク・ダンカンが、もうけ話をマフィアに話を持ち掛け、黒いビジネスに手を染めていく様子を描いている。ヒューストンを舞台にして、傾斜掘削による原油盗掘をマフィアたちが計画するという点においては、確かに独創的な話かもしれない。だが、物語はやがて裏切りと殺人で充満し、定型にそったB級映画の展開を見せていく。一方で、「平凡な男が、戦後アメリカの繁栄の機構を出し抜いて一攫千金を狙うが、惨敗する」物語でもある。このタイプの《Film Noir》には『オーシャン通り711(711 Ocean Drive, 1950)』『事件の死角(Shield for Murder, 1954)』などが挙げられるだろう。
『The Houston Story』の監督、ウィリアム・キャッスルが製作時のトラブルについて語っている[2 pp.127-128]。キャッスルと撮影クルーはヒューストンでロケを行っていたが、主役のフランク・ダンカンを演じていた俳優のリー・J・コッブが、8月のテキサスの熱にやられてしまい、心臓発作を起こして倒れてしまった。キャッスルは、自分が背格好や雰囲気がコッブに似ていてよく間違えられたので、顔さえ映らないように工夫すれば、自分がコッブの代わりをやっても、なんとかごまかせるだろうと考えた。結局、残りのロケ撮影は、キャッスル自身がコッブのスタンドインとして乗り切った。ハリウッドに戻ってからも、コッブの回復を待っていたが、コッブが再度倒れてしまう。しびれを切らしたカッツマンがジーン・バリーを連れて来て、彼で残りの室内シーンの撮影をすると言い始めた。キャッスルは結局カッツマンの指示に従って、バリー主演で映画の大半を撮影せざるを得なかった。だがしかし、テキサスで撮ったフッテージはどうするのか?キャッスルは、出来上がった映画をみて驚いた。コッブ、キャッスル、バリーの3人が主役のフランク・ダンカンを演じているのだ。ヒューストンの街中を走る遠景はウィリアム・キャッスル、それに続いてリー・J・コッブが走り続けて、ドアを開けて建物に入る。続いてジーン・バリーが殴られる近景、倒れそうになるウィリアム・キャッスル、床に倒れるリー・J・コッブ、と編集でつないでいたのである。さすがのキャッスルもその酷さに頭を抱えたという[❖ note]❖3人の主役 ウィリアム・キャッスルがここで描いているようなシーンは、実際の映像では確認できなかった。。
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The Houston Story (1956)
ヒューストンでのロケ撮影があまり活用できなかった作品。
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私が見ることができたサム・カッツマンの《Film Noir》の数作のうちでも『Chicago Syndicate (1955)』は、かなりよくまとまった出来の映画だと思う。プロデューサーとしてカッツマンはクレジットされていないが、彼のClover Productionsが製作会社としてクレジットされている。監督はフレッド・F・シアーズ、脚本はジョセフ・ホフマン、主演がデニス・オキーフという、実に枯れた組合せの映画だ。イーグル゠ライオンの『T-メン(T-Men, 1947)』の役柄を再演するかのように、オキーフはここでもマフィアに潜入捜査する。彼が会計士として潜入捜査するのは、アル・カポネが去った後のシカゴのマフィアだ。ボスのアーニー・ヴァレント(ポール・スチュアート)は極めて用心深い。マフィアの暗黒のビジネスの全貌が書かれているはずの帳簿は、どこにもないのだ。
1950年代のハリウッド大衆映画を分析したウィーラー・ディクソンは、監督フレッド・F・シアーズの作品について「荒涼とした世界観に貫かれている」と評して、それがサム・カッツマン製作の映画のなかでも彼の監督作品を際立たせる要因だとしている[1 p.69]。だが、『ロック・アラウンド・ザ・クロック』や『巨大怪鳥の爪』が「荒涼とした世界観に貫かれている」というのは無理があるだろうし、同時期のウィリアム・キャッスルの作品に比べたときも、シアーズの作品が特に際立って暗澹たる物語だというわけでもない。『Chicago Syndicate』も典型的な《移民》と《犯罪》の結託の物語を下敷きに、マフィアが企業としてふるまっている様子を描いているが、極めて記号的な描写にとどまっている。デフォルメされたイタリア移民の《母》と《息子》の関係、具体的な描写が全くないマフィアの《ビジネス》、潜入捜査が呼び起こす《ファム・ファタール》と《ファム・エンジェリーク》の存在、といったものが、すべて方程式通りに描かれていく。
カッツマンが1950年代にプロデュースした《Film Noir》は、実在の都市を舞台に、組織犯罪をテーマにしたセミドキュメンタリー・スタイルのものがほとんどだ。マイアミ、デトロイト、ニューオリンズ、ヒューストン、そしてシカゴ。『Chicago Syndicate』の撮影監督はベテランのヘンリー・フローリッヒ(Henry Freulich, 1906-1985)だ。カッツマンの指示であろう、シカゴでのロケーション撮影は最小限に抑えられている。多くのシーンは室内のセットか、プロセスショットで撮影されたもので、シカゴの映像はストック素材か、Bユニット撮影のものも少なくない。だが、実際のロケ撮影のフッテージは目を瞠るものがある。尾行されているオキーフがカフェに立ち寄るシーンは、カフェの内部と外部、全面ガラスのウィンドウに映る反射、映画館のマーキーの混沌などが、一挙にスクリーンを占領して、観る者の視覚を圧倒する。リトル・イタリーを舞台としたクライマックスは、ロケーション撮影が主体となり、町の猥雑さと活気が画面に満ちていて説得力がある。放棄された地下貨物鉄道を舞台とした追跡劇は、この予算規模の映画にしては贅沢ともいえるセットアップになっていて、ロケーションの利を活かしきっている[❖ note]❖シカゴ・トンネル・カンパニー シカゴのダウンタウンの地下に貨物鉄道を敷設し操業した会社(1906–1959)。この貨物鉄道は『武装市街(Union Station, 1950)』でもロケーション撮影で登場する。。前述のようにヒューストンでのロケーション撮影が活かせなかった『The Houston Story』と較べて、『Chicago Syndicate』は、こういった点において恵まれていたと言えるかもしれない。
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Chicago Syndicate (1955)
カフェの向かいの映画館では『波止場にて(On the Waterfront, 1954)』が上映されている(上)。別の映画館では『裸足の伯爵夫人(The Barefoot Contessa, 1954)』が上映されている(下)。
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フィルム・ノワール以降
カッツマンは1955年のインタビューで歴史映画や剣戟映画はもう終わりで、これからは『The Houston Story』『Inside Detroit』『Earth vs. the Flying Saucers』といった映画に方向転換すると言っていた。つまりマフィアを題材にした犯罪映画(その多くは《Film Noir》のタグがつくことになる)、そしてSF映画が流行だと判断したのだ。しかし、1958年のインタビューで、彼はさらに方向転換を宣言する。
これからは、マフィアや銃撃戦やナイフや殺人といったものは取り上げない。モンスターが出てくるSF映画もやらない。
Sam Katzman, 1958 [1 p.60]
カッツマンは『ロック・アラウンド・ザ・クロック』の成功を機に、ティーンエイジャー向けの映画に切り替えたのである。『Going Steady (1958)』『Life Begins at 17 (1958)』といった思春期恋愛映画を量産し始めた。これは、奇しくも『黒い罠(Touch of Evil, 1958)』を終焉と考える、従来の《Film Noir》史のとらえ方と一致している。すなわち、1958年頃を節目として、ハリウッドはティーンエイジャー(ベビーブーマー)と向き合って、そこに巨大な市場を見出し始めていた。それまでのハードボイルドな男たちや謎の空飛ぶ円盤は、マックス・スタイナーの『避暑地の出来事(A Summer Place, 1959)』にとって代わられたのである。その変化をいち早くかぎとっていたのが、サム・カッツマンだったのだ。
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『ロック・アラウンド・ザ・クロック(1956)』の広告
Motion Picture Exhibitor 1956年3月21日号より。同じ時期にジョン・フォード監督の『捜索者(The Searchers, 1956)』が公開され、桁違いのプロモーションが行われていた。
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サム・カッツマンが「ビートニク beatnik」という言葉を発明したという伝説がある。あくまで伝説であって、真実かどうかはわからない。興味深いのは、渇望、反抗、憂鬱、情熱にあふれた感情を表現しようとしている若い世代に、カッツマンが興味を抱き、ジャック・ケルアックやアレン・ギンズバーグの運動を認知していたということだ。ビート・ジェネレーションの表現者の一人、ロン・ライス(Ron Rice, 1935-1964)が自主製作映画『The Flower Thief (1959-60)』の製作資金援助を求めて、ありとあらゆるハリウッドの映画人に手紙を書いていた時、唯一手を差し伸べたのが、サム・カッツマンだった。手を差し伸べたと言っても、軍の放出品の生フィルム[❖ note]❖軍の放出品のフィルム ロン・ライスによれば、サム・カッツマンが送ってきたのは、第二次世界大戦期の戦闘機のガンカメラ用のフィルムだったという。をライスに送った、というだけなのだが、それでもそれが無かったら、ライスは映画を作ることができなかったのである。他の映画人たち、プロデューサー達は、ビート・ジェネレーションの表現活動などには興味なく、むしろMGMの『悪いやつ(The Beat Generation, 1959)』のように犯罪者扱いしていたくらいだ。カッツマンは、大衆文化のなかから、《カウンターカルチャー》が生まれることに、いち早く気づいていた。
そのカッツマンが、ヒッピー・カルチャーを題材にしたエクスプロイテーション映画『ラブイン(The Love-Ins, 1967)』を66歳で製作するというのも、大衆の好奇心を積極的に利用するビジネスが根源的にもつねじれのようなものなのだろう。ジェリー・ウォルドのように、スターシステムの構造的袋小路 ──スタジオにとって、スターは年齢とともに利用価値を失っていくという悪しき思考── を《Film Noir》的作品によって突破しようとした映画人は極めてまれで、むしろパイン゠トーマスやサム・カッツマンのように、スターシステムの構造に乗っかったまま ──年齢とともにギャラがその知名度を下回るようになったスターたちを利用する── に、そのフリンジにおけるビジネス上の判断として、《Film Noir》的作品を(大衆の好奇心が続いている限り)一定数供給し続けた者のほうが多い。《Film Noir》の本数が多いプロデューサーとして、モノグラム/アライド・アーチスツのリンズレイ・パーソンズや、コロンビアで「ホイッスラー」シリーズを手掛けていたルドルフ・C・フロソウがリスト入りしているが、彼らも大衆の嗜好を追いかけていた結果、比較的多くの作品を残すことになったのである。サム・カッツマンは、その最も極端な例と言ってよいだろう。
References
[1]^ W. W. Dixon, “Lost in the Fifties.” Southern Illinois University Press, 2005. Available: https://books.google.com?id=_NlFWWKnjXwC
[2]^ W. Castle, “STEP RIGHT UP!…I’m Gonna Scare the Pants Off America.” New York: G. P. Putnam’s Sons, 1976.